昭和44年9月17日 朝の御理解
入力者=甲斐田誉(臼杵のご信者さん)
御理解21節
「信心せよ、信心とは我心が神に向うのを、信心と言うのじゃ、神徳の中におっても、氏子に信なければ、おかげは無し、カンテラに油一杯あっても芯がなければ、火が点らず、火が点らねば世は闇なり、信心なければ世界は闇なり。」
信心ばかりは、親だから子だからと言うて、例えば、それが肉親であっても、親がどんなに信心を頂いておっても、信徳の中に浸っておっても、氏子に信なければ、おかげは無しとおっしゃる。芯がなからなければ、信心がなければ、おかげは無いのです。ここでは形の事ではなくて、心の事の様ですネぇ、心の御かげ、心にいわば、光を頂くと言うことですから、形の御かげでは、そうでは無いんですネぇ、親が金を持っておりゃ、やはり子供も金を分けて貰ったり、それを使ったりする事が出けますから、その形の事では無い、親が分限者でありゃ、子供も、やはり分限者と言う事になる訳ですけれども、ここで御かげは無し、と仰るのは、火が点らねば世は闇なり、信心なければ世界は闇なり。と仰る、その自分の心の上に頂く光、ネ、ここん処の御かげは光の事だと思うですよネぇ、どんなに親がお徳を頂いておられても、子供に信が無かったら、子供だから、やっぱり心が、親が助かってあるから、子供も助かってござると言う事はない。子供は子供なりに、それぞれに、やはり信心がなからなければ頂けん、これはもゥ、二十何年前の福岡に修行中時分に頂きました、これは私、始めて、あゝ言うお知らせを頂いた。エー例えば、筆なら筆を持たせて頂きますと、筆の方がこゥ動いてですネ、こゥそれが字になったり、絵になったりした時代がありました。これは天理教で言う、お筆先なんかって言うのは、そんな事じゃなかろうか、と思いますネぇ、私もそんな時代があったんです、その時分に、いわゆる色々頂いたのが徳は子ならず、子はもりもりの信心と言う、もゥよっぽど、あの説明して貰わんと分らん様な字で、小んめな、虫の這った様な字ですけんネ、そんな事、頂いた事があります。信心してお徳を残しておけて、あの世に持って行ければ、この世にも残しておけると、子供にも残しておける、と言う事はネ、あのう確かに残しておけますけれどもネ、それはそのまま、徳と言うのは此処にこゥ露出してるものじゃない、と言う事ネ、在ることは在るんです、私はある教会の、この、色々とお伺いを致しまして、色々お知らせ下さりよった或る教会の事を、私、お知らせ頂いたのに、お父さんは、って方が大変な徳者で在った、その二番目の息子さんが、やはり同じ市内に布教に出られた。教会もやっぱり、先生が居られておる時でしたから、立派な教会が出けた。信者も総代から、まァ幹部連中、その地区の、そこの信者は全部そこに付けてやられた、教会に、ところが、そう言う信者は段々無くなって行って、その教会は段々寂れる一方であった、ネ、先生がおいでられたから、その家も建てとやんなさった、信者までも付けてやんなさった、ネ、もゥ ? から、ちゃんと教会としてのその機能が発揮出来る様にしてやった、だから楽な様ですけれども、その段々、その信者は年と共に無くなってしまって、まァ、大した御比礼も頂かんなりに、まァ今日に到っておる教会があります。そん時に私それを頂いたです、ネ、結局あのう徳と言うものは有るんだけれどもネ、有るけれども、それを頂こうと言う気が無い、信なければ本当に世界は闇であります、ネ、御理解に、あの二十四孝と言う、お芝居のあの御理解を頂いた、筍掘りですネ、親が寒中に筍を食べたいと言う、こんな寒中に筍が有る筈が、無いんだけれども、まァ親が言われる事だからと言うので、あの竹薮の中に入って行って、雪を掻き退けて、その筍掘りをする、ところが、成るほど筍は無かった、無かったけれども、その人がもゥ尋ねて止まん、どうでも、それがなからなければ、と言った様なものが其処から出て来た、と言うんですネ、刀を掘り当てるのです。その刀を詮索して居る訳ですネぇ、捜し求めておる、その刀が有ったと言うお話です、だから私共の探し求める、その幸せと言うのは、やはりお徳を受けなければ、幸せになれませんが、そのお徳と言うものはです、なら、見栄とか、財産とかネ、鍬とか田地、田畑とか言うものは、これは残せます、残せますけれども、それは焼ければ灰になる、流れりゃァ、もゥ何処か、跡形も無くなる、ネ、いわば使えなくなる。家、蔵、財産もそうなんです、むしろ、其の為に、その人が難儀をすると言う事すらが、まァ多いのです。親が残した財産のために、何も自分の力を発揮する事も無しに終わって、ただ、親の財産に、その縋って、頼ってしまうと言うのです、ネ、力を発揮する事も、でけんなりにしまえてしまう、と言う人も沢山あります。ネ、ですから徳と言うものは、その家やら蔵やら財産じゃないですネ、けれども、その徳は確かに跡に残しておけれると、こゥおっしゃるけれども、残してはあるけれども、それは家、蔵、財産の様に露出してる物じゃ無いと、分り易く言うなら、地の中に埋けてある有るような物、だから、それを例え掘り起こそうと、いわゆる、信なければ世界は闇と仰る、その信を求めての、そこに素直な信心、親様がこゥ仰っておられたからと、ネ、三代金光様じゃないけれども、始めの間は辛うて、辛うて、よゥ泣いたと、こゥ仰る、けれども親様が、こうしておれば、楽じゃと、座っておれば、楽じゃと仰ったから座っておりましたら、決して楽なこっちゃなかったと、親様は楽と仰ったけど、楽じゃなかった、よゥ泣きましたと、こゥ言うておられる。辛うて、辛うて、よゥ泣いたと、けれども親様のお言葉を、いわば信じ切って、座り抜いておられたと、こゥ言うのであるネ、親が言ったけれども、知らぬじゃちゃったと言うて、三代金光様の事ですから、三代金光様が、もゥお座りになる事を止められたら、現在の金光教は果たしてあるやら、無いやら判らない、ネ、けれども、そこを泣く泣くでも辛抱し抜かれた所にです、成る程あった、それは思う事も無くなり、欲しい物も無くなると言う程しのものがあったネ、有難うて、有難うて、勿体無うて、勿体無うてと言うものが、その先に有った、ネ、この辺の所を信心は大事にしなければいけないと思うネ、信心は楽じゃと言われても、楽な事なんか無い、信心程きついものはなか、と言えばそれ迄です、けれども信心の信を頂けばです、楽なのです、だから頂く迄なのです、だから、そこん所をです、親先生の仰る事を信じてとかネ、親金光様の仰る事を信じて、座って居りましたら、と言う事になるのですネ、そこには素直さと言うものがネ、素直さと言うものが、私はそこに求められる訳なのです。私、あのゥ、自分でも覚えて居りますが、四つ、五つ位まで、位じゃなかったでしょうか、私の隣に叔父達、今この楽長うしておられる、田中さんの父親になるわけですが、ま、非常に可愛がってくれました。あんまり可愛いもんじゃから、やっぱり場合には、ま、可愛いから苛める様な、可愛がり方をした。非常にお客さんの多い家でしたから、客が来ると、私が何時も遊びに行ったら、総ちゃんなあ、ちゅうて笑うから、ハイ、ちゅうて、行くと、さァ、そこに寝れって、こゥ言う、そして私が長しがって寝るです、もゥ、こん奴ばっかりは、私が言う事なら、どげなこつてん聞くち、からお客さんに話よるとです、寝れちゅうと、ちゃんとこゥやってから、不動の姿勢を取った様にしてから、お長しなってから、寝る訳です。まだぞゥっち、俺がよかち、言わなければ起きちゃァでけんぞっ、ずうっとこゥやって寝とる訳です、それを叔父がもゥ大変喜んで、来たお客さんにその、それをして見させる訳ですよネ、こりゃ、私が言うことなら、どげな事てん聞くち、から言ういよる。それが、そのまま眠ってしまうとる事があるです、やっぱり子供ですから、すると目を覚めると枕元に、ちゃァんと羊羹やら、何やら置いちゃるです、ネ、又はその眠らんなりヨーシ、私の婆婆が来てからもゥ、田中益太郎ち言いよりましたが、益たん、益たん、ち言いよりました、益たんばっかりはどうして、むげなこつするじゃろうか、こげな子供をチ、婆婆が腹をかきよった事を覚えております、ですからネ、やっぱ、そんなもんです、御かげを受けると言う事、やっぱりですネぇ、もゥきつかチ、そゥきっと迷うわさん? ですよネ、ずうーっと考えて見ると、楽な事ちゃ、楽な事でしょうがネ、言う通りにして寝とき、さえすりゃァ良か事じゃけん、ネ、そして、そのまま眠っとってもですネ、それが叔父の自慢の種の様にしてから、可愛がってくれました、可愛がると言うことは、又それと反対に、それこそ私の婆婆から見たら、どうしてそんな、その、むげエ事するじゃろうか、と見えたりした、に違いはありませんネ、私はもゥ、信心はネぇ、こう言う金光様の御信心はですョ、こう言う生き方で行く以外にないように思います、御かげになるがチ、先生が言わっしゃるけん、そこで参ったばってん御かげ頂きらんじゃったチ、御かげ頂く処まで辛抱しとらんもん、途中で起き上がっとるネ、こげな寒か、こげな寒中、竹の子の有る筈はなかじゃんのチ、からも始めから言う事、聞こうとせんもんネ、そして自分の得手勝手な事をして、よゥ御かげを頂き切らんネ、私は、どうしてもこの辺の処をネ、この辺の所の信心が本とに、身に付いてしまわなければいけんと思う、信心とはネ、信とは結局信ずる事、ネ、親様が仰っておられたからとネ、楽じゃと仰ったけれども、決して楽じゃなかった。それこそ、よゥ泣きましたがな、とこゥ仰る、けれども親様がネ、親金光様が座っとりゃァ、楽と仰ったから、楽な時が必ず来るに違いはないと信じて居られた、泣く泣く辛抱し抜かれたら、そこにはあった、大変な楽が、そこには有った、第一人間の悩みの元である処のネ、あゝしたい、こうしたい、と言った様な我情、自分の先ず思う事が無くなられた。ネ、勿論、我欲が無くなって行かれた、欲しいと言うものが無くなられたと言うんですからネ、そして、そこには有難うて、有難うてと御礼の足りないお詫びばかりを、しております、と仰る様な素晴らしい世界が開けて来た訳ですネ、それこそ、先日から頂きます様な、輝くばかりの光がですネ、いわゆる地上の太陽と、みんなに仰がれなさる程しの、御神徳を受けられたネ、火が点らなければネ、世界は闇なりと、信心なければ世界は闇なり、と仰る信心とはそう言うものだとネ、只、信心しとります、御かげ頂きよりますと言う、いわば御かげを頂く、と言う程度の信心では、ここでは信心になっていないです。信心とは信ずる事、しかも、それを信じ抜くこと、信心とは自分の心の中に光を頂く事ネ、始めに信心せよ、信心とは我心が神に向かうのを、信心と言うのじゃと、今日は、そこん処をはっきり教えて頂いた様に思います。信心とは、ネ、お金が儲かると言う事じゃない、信心とは病気が治る、と言う事じゃないと言う訳なんです。信心とは我心が神に向うて行くのを、信心と言うのじゃ、始めの間は辛うて、辛うて、よう泣いた、と言う処を三代金光様が辛抱し抜かれたネ、信心とは我心がその様な課程を通って、神に向うておられた訳なんですネ、辛うて、辛うてと言う処が無くなられた処には、もゥ欲しい物も、思う事すらも無くなったと言う様な御かげ、いよいよ、我心が神に向うて、おいでられた、神徳の中に居っても氏子に信無ければ御かげは無しと言う事はネ、この様な光り輝くばかりの大きな光の中に私共は包まれて居るけれども、余りにも、その光が偉大である為に、大きい為に、むしろ私共は目が眩む様にして、目先が全然見えないで居る様な、姿が信心の無い者の姿である。いわゆる信の無い者の姿である。どんなにカンテラに油がいっぱい有っても芯が無ければ火は点らない、ささやかな芯であっても、親様が言うて下さっておる事であるからと、それを信ずる、その火が点らなければ世は闇なり、とこゥ言う。私も今朝方って夕べ一晩中頂いて居った夢が、もゥ蛇のお知らせばっかりじゃった、もゥ私、蛇は大体怖くない方ですけれども、ちょっと気持ちの悪い、ネ、ものは無い、小さい蛇が、こゥ生まれよる。あら、ここにこげん愛らしい蛇がおると、始め思うとった、蛇がその恐くないから、可愛らしい位、所がよーく、こゥやって見るとこれが、向こうの方に、居る事、居る事、もゥ固まって、もゥ、それこそ大小様々な蛇がいっぱい居る、それからやっぱ、ちいっと気持ちの悪くなってから、その、それから、その蛇をどうかしてから、整理せにゃいかんと言う所が丁度、露店の様な所が有って、そこに蛇をこゥ言う人に回り逢うっちゃ、不思議なことじゃったと言う人と、めぐり会った。よう見よったらどっか見たようにある、と思いよったら、北京で知った人であった、はァあんた、ほんに北京におんなさった、と言う様な事で話が、そして何をしよんなさる、と言うと蛇商いをしよる。して私は、まァ実はこげな蛇が沢山おるちゅうてから話したら、そりゃァあんた、もゥ幾ら方、金になるじゃ解らんですよチ、そう言う、肉はこげんな風にして食べると美味しい、こう言う肉はこげんして食べんならんと言う、蛇の食べ方が、もゥちゃんとそれぞれに刻んで、こげな皿に盛ってあるです、そして今度こっちには蛇の皮でですネ、自分の作った細工物、あのバンドとかネ、あのハンドバックの皮とか、と言う物は蛇の皮で作っちゃるでしょうが、もゥそう言う、もゥ蛇の、その何じゃもの、どこも、ここも、そのお金になるものばかりだと言う様な、そう言う、もゥ、まだお話出来ない程しの蛇の夢ばっかりだった。だから蛇と言う事はまァ「めぐり」と言う事も言うけれども、私は夢ん中で思いよった、普通では蛇は金の精ちゅうてから、蛇の夢見ると金、金が身に付くと、こゥ言う、ほら、もゥちょいと私しゃ、どかしこ儲けたか分らん、と思いながら目が覚めたネ、ですから私共がですネ、信心させて頂いて、ほんとにたとえば、泣く泣く辛抱しい、しい、にと言うて辛抱が出来ると言う事はネ、もゥどんなに考えても自分の家にそう言う大変な「めぐり」が有るという事の自覚に立たなければ出来ない様です。それが信心させて頂きよるとネ、これだけは他所じゃなく家の「めぐり」と言った様なものを感ずるです。はっきり感ずる様になるです、又例えばそんな事じゃないですけれども、それ位の事じゃ無いですけれども、例えば私の大坪の家にはですネ、もゥ代々足が痛むと言う病気があるとですヨ、変な痛むだけでは無い、みんな「ちんば」になってしまうとですヨ、私の方は、足だけですネ、だから、そん難儀しおったけれども、信心が段々分って来る様になったら、「めぐり」と言うものは、どうにも出来ないなァち、今の若先生が子供の時からです、夜中にヒイヒイ泣きますもん、足が痛いチ、泣きよりました、そして、もゥちょいしてケロッと良くなるんですヨネ、もゥ本当に、だから言う様な事からでもですネ、例えば「めぐり」と言うものを実感せん訳にはいけない。まァだそん、心の中に感ずる「めぐり」はありますヨ、で、から泣く泣くと言う様な時であってもです、辛抱が出けるのですネ、それだけでは無いんですけれどもネ、けれどもネ、やっぱり「めぐり」の自覚に立たなければならないネ、そう言う例えば、ほんなら「めぐり」がです、私に力を与えた、その「めぐり」が私に光を与えて下さった、御かげで真っ暗い中を通っておったけれども、これが灯る心になった時にはです、世界は闇なりでは無くて、世界はもゥ光明の世界へと変じていった訳なのですネ、全てが神愛と解らして頂く程しに有難うなって来た訳なんです、ですから、そしてもゥ一つ、あの「めぐり」と教祖様がおっしゃて居られる、前々の「めぐり」で難を受けて居るとおっしゃる、その難の元は「めぐり」であるネ。ですから、その「めぐり」の自覚に立って行くっ所にです、例えば問題が有っても、難儀な事が有っても、「めぐり」のお取り払いを、頂いて有難いと言う事になって来る訳です、ネ、又事実それがお取り払いになって行きよる訳ですネ、それがお取り払い頂いて行くと言う事は、こちらに信がなからなければ、それを信ずる力がなければ、火は灯らんのである。芯がなければ火は灯らんネ、そこで求められるのは先程から申します、素直な心と言う事になります。先生はあげなこつ、言いよりなさるばってんから、と言う事になったんじゃァ、もゥ途中で止めよう事なって来るネ、先生があゝ言って頂くからネ、親金光様があゝおっしゃて頂いたから、そこは泣く泣くであっても、辛抱し抜かして頂いたら、と言う事になる。私はここん所は今日は「信心せよ、信心とは我心が神に向かうのを信心と言うのじゃ」とここん所に焦点を置いて、聞いて頂いたつもりですネ、信心とは、病気治しや、災難避けじゃないと、信心とは我心が神に向かうて行くのじゃ、と向うて行く過程と言うのはですネ、やはり、泣く泣くと言う所もあるけれどもネ、そこに信が生まれて来るネ、いわゆる、火が点じられて来る、ネ、成るほど、信心なければ、世界は闇なりと仰る意味が分って参ります、ネ、しかも、そう言う信心、神徳の中に有ってネ、その神徳を我身に受けてネ、この世をいわば、神愛の中にある、自分と言う様な有難い尊い事が解らして頂く、それを御神徳とこう言う、ネ、その御神徳と言うのはです、あの世にも持って行け、この世にも残しておけれるんだけれども、それは、決して上に表れて、家、蔵、財産の様に露出しているものではない。まァ解り易く言うならば、地中深く入っておる、ものである。ですから、その子供が孫がです、それを掘ろうと、それを頂こうと言う気になれば、だから、そこには必ず有る訳ですネ、私が或る教会の、そう言う御比礼を頂かれた親先生がネ、子供さんの為に教会を一軒建立された。総代、信者までも、付けてやられた、もゥ始めから立派な教会で有った。けれども段々、寂れて行く一方であった、ネ、成る程、お徳ちゅうものは残る、成る程、そう言う家、蔵、財産的なものは残ったけれども、それは徳は、そうでは無い、そこで現在そこの若先生が熱心に信心をして居られる事は私は良く知って居りますが、ですから、なんか、一辺、機会が有ったら、その事を教えて上げたい、と今もまだ、思いよります。けれども中々、それは普通で言えるこっちゃありません。ここに信心を本当に求められる様な、雰囲気が生まれて来りゃァ、私が何時か、こげな風に頂いた事があるぞ、と、もゥ掘ろうと言う気になり、修行さえ、さして頂こうと言う気になりゃァ、お宅の場合は、もゥ其処に埋けて有るのだから、それを掘り上げる事が出来るんだと、成る程、徳は弧ならず、である。弧は折々の信心なのである。ネ、折々の、その信心に拠って、その信の力、親様の残して置くぞ、と言うて下さったから、この辺に残して有るんじゃなかろうか、ここ辺に埋けて有るのじゃなかろうか、と、やはり掘り上げるまでを、のそこん処はやはり、要ると言う事である、ネ、信心とはその様なものだとネ、素直、素直、素直さが求められる、それもやはり、辛抱し抜かせて頂かなければいけない、もゥ、きつかけんで、もゥ起きて良かなァ、起きて良かなァちゅうと言う様な事じゃ出けん、とち言うこと、俺が良かちゅう迄、起きちゃ出けんぞ、と言うのを黙って、それこそ眠ってしもうたっちゃかんまんけんネ、その素直に寝ておくと、言う様なものがです、脇から見ておると、それが酷いごと見える、あっちゃァ、あゝ言う信心しよるござるけど、どうして、あゝ難儀が続くじゃろうか、と言う事もあるけれど、そこを辛抱して、ちゃっと言われておるままに、眠っておると、眠っておる、目が覚めた時にはチョット枕元に自分のいわば求めておるものが、ちょっと置いてある様な、もんじゃないでしょうかネ、今日は信心とはそう言う、意味あいに於いて、信心と言うもんだと言う事を、実は、成るほど、自分の心が神に向こうて行く、その過程ネ、だから、自分の心が年々、そう言う神に向こうて進んで行きよるなら、貴方は信心だけれども、三年前も、今日も一つも変わっちょらん、唯、御かげ、御かげと御かげを求めておるなら、それはここで、二十一節で言われる処の信心では無い事になります。どうぞ!!